ネットにたくさん書いてあります。
それは合気道が実戦では使えないし、
相手がわざと動いてたりするように見えるから、
言われているようです。
本当に「合気道はやらせ」、「合気道は意味がない」のでしょうか。
私の見解は、以前ブログにも書いたので、
今回は祖父の見解から、
考えていきたいと思います。
祖父の著書【合気道人生】に
「実力の養成は試合で勝負を決するのとは無関係」と書いてあります。
これは、試合で勝負をしなくても、実力はつく!ということ。
合気道は試合がありません。
試合をすると、勝たなくては!と思いますが、
相手と試合しなくても確かな実力が身につくということです。
もちろん、そのためには相手ではなく、
自分に勝つ厳しい稽古を毎日しなくてはいけませんが。
今の時代、試合とか実戦とか試す機会はありませんが、
合気道の形(かた)や護身技や、
実際襲われたとき役に立つのかな?と思っている方にも、
今回のブログを読んでいただきたいと思います。
※こちらは、絶版になっています。
実戦を経験した塩田剛三だからこそ分かる、
「合気道と実戦」に関して述べています。
合気道は試合形式をとらず、
常に互いに仕手となり、
受け手となり、技の反復練習を行います。
そのために、よく若い人の中には、試合がないから、
自分が強くなったのかどうかよく分からないので
物足りないという人がいます。
ことにこの頃のようにスポーツが盛んで、
試合により勝負を決める場面に常に接していると、
なおそう思うのでしょう。
スポーツは一定のルールを決めてあるから、
その範囲で試合もでき、
勝ち負けを判定することもできるわけです。
しかし合気道はスポーツではなく武道です。
当然相手を倒すか、自分がやられるかです。
その時あれはルール違反だから
けしからんなどと言ってはおられません。
その場に即応した方法で
とにかく相手を制しなければなりません。
私も若い頃、稽古や演武では
自分の力はある程度分かっていましたが、
ただ己を信じ、己の稽古の中から
自然に力を養うことに努めていたので、
実戦の場合果たしてうまくいくのだろうかと、
疑問を抱いたことがありました。
しかしある時、自分が修得した合気道が
こんなに威力があったのかとわれながら驚き、
合気道を習っておいてほんとによかったとつくづく思い、
自信が湧いてきたときの実例をご紹介しましょう。
それは昭和十六年(一九四一年)七月、
日本が米国に対して宣戦布告する約五ヶ月前で、
当時私は二十六歳でした。
父と親しく、私も可愛がられた
陸軍大将・畑俊六閣下が支那派遣軍総司命官で、
私をその秘書官として北京に呼んで下さった時のことです。
閣下の命令で飛行機でハノイへ行く途中、
上海で一休止のため飛行場に下り、
ぶらぶらしていたところ、
拓大時代の浦岡という後輩にばったり会い、
肩を抱き合って再会を喜びました。
この辺の経緯は第二部に述べておりますから
詳細は省略しますが、これからが本題です。
浦岡が「フランス直界の粋なところへ
今夜ご案内します」というわけで、
私も胸をふくらませて夜八時頃ある店の中までついて行きました。
部屋に通されてから、
浦岡が客引きのような男と
值段の交渉をしているうちにけんかとなってしまい、
いきなりその男の顔にパンチを食わしました。
男は唇から血をたらし、
何かわめきながら逃げて行きました。
私は意味が分からず、
ポカンとしていますと、
浦岡は真剣な顔で、
「先輩、もはや命は二、三分しかありません。
必ず仲間を呼んで仕返しに来ますから、
早く用意して下さい」と叫びました。
「逃げたらどうだ」 と私が言いますと、
「とんでもない。途中で殺されますよ。
明日の朝までは動けません」と
死を覚悟しているような硬い表情で言うのです。
私も二十六歳で、
上海のこんなところで生命を捨てるのかと、
はかない気持になった反面、
こんなところで犬死してたまるかと、
生きるファイトが湧き上るのを覚えました。
正に絶体絶命の立場です。
浦岡は職務上ピストルを持っていましたが、
私には身を守る武器はなにもありません。
周囲を見回すとビールビンがあったので、
よし、ドアが開いたら
このビンで一撃のもとに殴り倒してやろうと心にきめ、
構えていました。息をころした緊迫の時がつづきます。
実際はどれくらい時が経ったのか分かりませんが、
馬鹿に長く感じ、しびれを切らして浦岡に
「来ないじゃないか」 と言いますと、
「いや必ず来ます」と彼は断言します。
夜も更け、多分午前二時を廻った頃、
ヒタヒタという音が聞えて来ました。
それも複数で四、五人のようです。
私はドアのところにへばりつき身構えました。
その時体中が震えてきて、
止めようとしても、どうしても止まりませんでした。
いわゆる武者震いというのとはどこか違うようです。
私はドアを少し開けて、機先を制しようと考えました。
相手がドアのノブに手をかけた瞬間、
こちらからドアを中に引き、
転がり入ってくるところを殴り倒す作戦でした。
浦岡は薄暗くした部屋の中でピストルを構え、
ドアの正面を狙っていました。
やがて足音は一時ドアの外でピタッと止まりました。
ドアの隙間から外を窺うと、足音をしのばせて次第に近寄ってきます。
頃を見計らって、間髪を入れずドアをパッと中に開きますと、
相手は予期していなかったと見えて、
ツッと前のめりに一人が部屋の中に入って来ました。
そこでいきなりビールビンで頭を殴りつけました。
ビンは割れ、握っている部分の割れロがギザギザになり、
まるで鮫の歯のようになっていました。
すかさずそれを相手の顔めがけて突き出すと、
顔の真ん中に当たり、それをさらに一ひねりしたからたまりません。
鮮血がほとばしると同時にのけぞりました。
逃してはならないと部屋の中深く引きずり込みました。
この間の出来事はほんの一瞬のことでした。
まだ三人います。一人の大きな中国人がいきなり
蹴り上げて来ました。それを左横に体を開き、
蹴り上げて来た男の足を、後ろ向きになりざま
右手で叩きました。それもごく自然に、
さほど力は入れなかったのですが、
男はヘタヘタと坐り込んでしまいました。
後でわかったことですが、
その足の膝関節と骨が折れていました。
私は簡単に二人を打ちとってやっと気が落ちつき、
心にゆとりができたとき、もう一人が私の前面目がけてく突いてきました。
それを内側によけ、
四方投げの変形で手を逆にして、
相手の肘を肩に当てて、グッと極め、
投げ飛ばしました。男の腕は意外なほどもろく
肘が折れて前方に飛んでいきました。
これで三人を片づけたのですが、
この間の時間は何分とってはいなかったと思います。
のびている三人をベルトと紐で縛って、
悠々とした気分で一服しながら見ると、
最後の一人を相手に浦岡は倉闘中でした。
浦岡は柔道四段で格闘技はなかなか強く、
とくに彼のけんかぶりは大したものでした。たしかに、
残りの一人をきれいな跳ね腰や内股などで投げるのですが、
最後のきめ手がないため、投げられても
投げられてもまた起き上がってかかってくるといった具合で、
なかなか結着がつかず、力戦をつづけている最中でした。
私は合気道の当て身というのはどの程度きくのか
試してやろうと思い、
「僕に一度やらせろ」と言って、
浦岡に投げられて男が起き上がってくるところを、
肋骨に当て身を一発喰わせました。
男はウウウウとうめきながらのけぞり、
泡を吹いて倒れてしまいました。
以上はたまたま私自身が、
求めずして生きるか死ぬかの
実戦の場に立たされる機会に遭遇したから、
やむを得ず戦い、日頃の修練の結果を見ることができたのです。
自らの力を試すために人にけんかを売ったり、
そうした機会を自ら求めて作ったりすることは
絶対に避けるのがむしろ合気道の修行者の道です。
そんなことをしなくても、
合気道の理合いにかなった稽古を
ひたすら素直な心でつづけていれば、
その人の実力は高まり、その姿、形、動きの中に
バランスの美がにじみ出て来ます。
私どもは一見ればすぐ分かります。
当時は柔道も合気道も当身を重視していました。
塩田剛三は、「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」
と言っています。
※上記の動画は当身を指導しているが、相手の不意を打つ当身はしていない。
実戦では、当身が必要なのです。
また、塩田剛三先生は、
「もう合気道は実戦で使われる必要はない。私が最後でいいんだ。
これからは和合の道として、世の中の役に立てばいいんだ。」
という言葉を残しています。
今の時代、当身を重視するのではなく、
理合(つまり自然に逆らわない動き)に合った技を行い、
相手と和すことを重要視してくださいということです。
実戦を重視してた時代は、
当身で歯を折る人もたくさんいた。
今の時代、歯を折ることが重要ですか?
合気道はその先にある神髄、
「相手と和すこと」を重要視しているのであり、
やらせでもなければ、
しっかりとした意味を持って行っている。