塩田 将大 Aiki Peace Seeker -合気道家-

★塩田剛三の孫が伝える【心】を豊かにする合気道★

塩田剛三は死ぬ間際まで強かった/合気道家の死ぬ直前でなぜそのようなことが出来る?

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言い訳

最近、言い訳する人が多い。

子どもで例を上げると、

体調が悪いから、宿題が多いから、今日寝てないからという

言い訳が多い。

 

そういう言い訳をする子ほど、成長しない。

 

しかし、指導者として、「言い訳しないでしっかりやれ」とは言わない。

子どもの潜在的な気持ちを呼び起こして、諭す。

 

「やれ」とは言わず、

足が速くなるには、頭がよくなるには、モテる?ためには、とか、

子どもに響きやすい言葉で伝える。

 

子どもによって、どの言葉が響くかわからないが、

武道をしている以上、自分に限界を決めつけず、

疲れるまで、技を行ってほしいと思っている。

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疲れるまで遊ぶ子ども

 

子どもの稽古では、最初に体幹や瞬発性のトレーニングをするが、

大人でもなかなか大変なことを行う。

 

例えば、後方受け身150本とか、

バーピージャンプ(ジャンプして、しゃがんで手をついて、

足を延ばして、また立つ運動)10分間とか。

※3歳から小学校低学年までのクラスの稽古風景

 

誰でも大変だが、しっかりやろうとする子と最初からあきらめてしまう子で

1か月後には大分差がついてしまう。

 

これが、できないと、明日死んでしまうかもしれない。

って気持ちを持てば大体のことは出来る。

 

子どもには「明日死ぬつもりでやれ」とは言わないが、

そういう覚悟をもって望めば、

能率の良い毎日を過ごせると思う。

 

 

ここで、祖父・塩田剛三先生が、

武道とは何たるかを

語った文章を紹介する。

 

 

武道の場合、もう一つスポーツと違う点があります。

スポーツや競技なら試合に向けて

自分の体のコンディションを最高にするように努めます。

しかし、武道である合気道では、

いついかなる場合でも、

たとえば酒に酔っている時でも、

体の調子が悪いときでも、

いざという時は、自分の状態を最高に置かなければなりません。

調子が悪いからなどの言訳は通りません。

これについて私がほんとに感心した植芝老先生の例を申し上げましょう。

 

昭和十四年のことだったと思います。

当時竹下勇海軍大将が植芝道場の会長であった関係で

先生に皇族方に済寧館で演武を

ご覧に入れてくれと頼まれました。

その時先生は「合気道は一瞬にして勝負を決するもので、

相手が再びかかってくることはありえない。

そういうことがあれば、それは虚偽である。

そんな嘘の技は皇族にはお見せすることはできない」と

一度は断わられたのですが、

竹下氏のたっての願いに断わり切れず、

済寧館に行かれることになりました。

※済寧館は皇居内にある道場

 

このときお供をするのが

高弟の湯川氏(今は故人)と私の二人でした。

しかもこの時、先生はひどい黄だんで、

十日間ぐらい水だけで、

ほとんど食事はとっておられず、

衰弱して着物を着るにしても、

歩かれるにしても

私ども両人の肩につかまらなければ

動けない状態でした。

 

こんな状態で演武がつとまるのかと、

両人顔を見合わせて心配したものでした。

 

それでもやっとのことお迎えの車に乗って

済寧館に着き、

車から降り、歩くときも私どもが支えて、

花道からいよいよ道場に入る前に来て、

皇族方のお姿が見えると、

急に眼光はけいけいと輝き、

今までとは打って変って、

凛然とした姿で、

さっさっと道場に入り、

丁重なご挨拶の後、

いよいよ演武に入ることになりました。

 

演武の時間は四十分と定められていて、

初めの二十分は湯川氏、

後の二十分は私が受けをとることになっていました。

 

湯川氏は先生の体の状態を考えて、

多少力を加減して先生に向ったようです。

 

しかし先生の気力は頂点に達していたのです。

あっという間に、

湯川氏の体はすっ飛んで、

畳にうずくまって動けなくなりました。

私は思わずかけ寄って、

よく見ると腕が折れてしまったようです。

そこで、湯川氏に代って、

私が四十分受けを努めるはめになりました。

 

私はもう手加減するどころか、

生命がけで先生に向かいました。

 

空中に舞って、畳につくや、

すぐ起き上って先生に突進する。

ピシャッと畳に押えつけられる。

体が自由になるや、また直ぐ立ち向かう。

また飛ばされる。

とにかく激しい気迫でしたが、

必死でなんとか四十分先生のお相手を勤め上げました。

しかし、その後さすがの私も高熱を発して、

一週間ぐらい養生を余儀なくされました。

この時の植芝老先生の演武前と演武中との

あまりの変りように、ただ驚きました。

そして真の武道家は常にこのように、

一旦緩急あれば、その前はどれほど体調が悪くても、

直ちに自己を最高の状態に置くものだということを

目のあたりにして、私自身の戒めとなりました。

 

ここにスポーツや競技の場合と異なる

武道の厳しい心構えがあるわけです。

 

また、植芝老先生は、よく私どもに

「わしの一番強いときは息を引きとるときゃ」と

言っておられましたが、

 

たしかにお亡くなりになる少し前に、

私がお見舞に先生の枕もとに伺った時、

先生の言に嘘がないことを目撃しました。

 

先生はどんなに病状が重くても、

必ずご自分で便所へ行かれるのです。

その時も、もうご臨終も近いと知っていたお弟子四人が、

先生が起きようとなさるのを、

両側からやせ細られた腕を押えて止めようとしたとき、

ぱっと振り払われたその力で、

屈強のお弟子四人は後ろの庭へはね飛ばされてしまいました。

植芝先生は最後まで真の武人であったわけです。

 

塩田剛三著「合気道人生」より

 

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武人・植芝盛平

 

武人は、些細なことで言い訳しない。

また、成長を止めることもしない。

死ぬまで成長し続ける。

 

祖父・塩田剛三も、死ぬ間際まで強かった。

もうあと何日も、もたないと医者から言われていて、

立てないくらい弱っていた。

 

そこでお見舞いに、

塩田剛三の動画を作り続けた、

DVD制作会社クエストの故・小暮社長がいらした。

 

塩田剛三は、「次はいつ撮影するんじゃ?」と、

立ち上がったのだ。

本人はまだまだ合気道をするつもりでいた。

 

祖父は、こんなに弱り果てても、

合気道がしたくてたまらなかった。

 

私も、祖父や植芝先生みたいに、

死ぬまで成長し続けられる人間でありたい。

 

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祖父・塩田剛三と私・塩田将大